続きを楽しみにしている方がはたして何人おられるか・・・
とにかく乗りかかった舟。最後まで書くとします。
永平寺の修行と言う特殊な世界を描いているので、雲水(修行僧)の身なりにしろ、永平寺の造りにしろ、私など想像力のない者には文字からだけではとても計り知れないのですが、それでも厳しい修行の様子は伝わってきます。
日常生活のすべての行いを道元禅師の教えにしたがって極限までに自由をそぎ落とし、欲望を抑圧し、経を読み、坐禅する。
その厳しい修行には、「なぜ?」と言う問いは意味がなく、ただ教示された動きをそのまま受けとめその行いに徹するだけの日々。
やがて身体をこわす者。逃亡をはかる者がいても当然のことでしょう。
と、その修行の様子を書くのはきりがなく、これくらいにして。
一年におよぶ筆者の修行が続き、やがて位もあがり務めも少し楽になっていく。
戦死した息子や弟のために毎年参拝する老婦人や、供養してもらったお礼にと手紙とともに送られてくる、きれいに洗い込まれた古いハギレなどを縫い合わせて作った雑巾などを通して、その向こうにある必死に乗り越えてきたいろんな人の人生に出会う。
そこで筆者が感じたこと
『人は生きていく限り、誰一人として例外なく、その歳その歳をすべて生きていかなくてはならないのだ。そして若年は若年なりに、老年は老年なりに、すべての歳をその歳なりの尊厳をもって生きていかなければならない。またそれができる社会でなくてはならないのだ。』
また、山ふところに抱かれ、禅の「あるがままに生きる」という現代社会からかけ離れた永平寺の生活をとおし、
『われわれはもっと自然を知らなくてはいけない。また同時に、そのわれわれ自身がまぎれもない自然の一部であることに気づかなくてはならない。この地球上で人間が生きていく環境とは、人間が作るものではなく、自然から与えられるのもであることをさとらなくてはならない。地球の自然から生まれた生命体は、地球の自然とともにあって、はじめて生きていけるものだと思う。
人間だけが例外ではない。それを正しく理解した上での進歩であり、発展でなくてはならないのだ。』
『自由とは。「自分が」「自分の」といった意識から解放されるところに現れる。自分を取り巻く外部の何かから解放されるのでなく、自分の内面にある欲望やその他もろもろの精神的なものから解き放たれることである。』
『生きることは何も特別なことではなく、突き詰めると、食べることと排泄すること。すべての生命は生まれ、そういった営みを繰り返しつつ、自然界の連鎖の均衡を維持させながらやがて死んでいく。その営みのすべてが生命にとっての重要な務めであり生命としての存在価値がである。』
『人間が生きるということに意味があるとすれば、まずこの世に存在していること、これこそが生きることの根本的な意味なのだと僕は思う。』
以上、私が感じ入ったところを抜き書きしてみましたが、なにしろ読み始めたのが今年の1月。少しずつ読み進んだので記憶が薄れたページをまためくりながら、駆け足の紹介になってしまいました。
さて、最後にどうまとめたらいいのか
今夜も社長が不在。そろそろ閉店時間にかこつけてこれでやめることとします。明日のお弁当も考えなくちゃ
以上『食う寝る坐る 永平寺修行記』でした。
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